昨日はモデルナワクチンの副反応で38.8度ほどまで熱が上がり、飲んでないのに二日酔い状態を経験できるという貴重な機会をいただいた日でした。大切なことを思い出せる気がしました。
今日は熱も平熱まで下がりましたので、前から書きたかった「ピンクの雲」のことを書いてみたいと思います。この言葉は、AAメンバーならずとも、みなさん一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
ここでの「ピンクの雲」とは何を意味しているか?
いわゆる「ピンクの雲」というのはどう言う状態でしょうか。AAの中で使われるその言葉には、さまざまな意味内容があると思いますが、僕が理解する意味内容はビッグブックに記述のある状態です。引用してみましょう。「第9章 家族、その後」からです。
ところで、最初に父親が感動的な霊的体験をしたとしよう。一夜にして彼は別の人間になる。熱狂的に信心深くなる。ほかのことは何も見えなくなる。父親が飲まないことが当たり前になった次の瞬間に、家族はなじみのない新しい父親を、初めは心配し、やがていらいらしながら見ることになる。朝も、昼も、夜も、霊的な話ばかりだ。自分は俗世間を超越したのだと言う。生涯を通して信心深く過ごしてきた自分の母親に向かって、彼女はなにもわかっちゃいない、まだ時間があるうちに自分と同じ霊的な考えを持たなければいけないなどと言うかもしれない。 pp.186-187
12&12にあるような「ツーステップダンス」とは違いますね。あれは霊的体験・目覚めを得る前に、メッセージを運びに行こうとすることでした。ここで書かれているのは、霊的体験・目覚めを得て熱狂状態になることです。
この記事では「ピンクの雲」をこのビッグブックの記述の意味で使います。
さて、AAの中で時折、こういった霊的熱狂状態の「ピンクの雲」に乗ることを侮蔑するような意見を聞くことがありますが、僕自身はそんなに恥じることでもないように感じています。だって、これは霊的体験・目覚めを得た多くのAAメンバーが共通して体験することだからです。同じく第9章のもう少し後にはこうあります。
彼は家族が思うほど、おかしくはない。私たちの多くが、この父親のような意気盛んな状態を経験した。私たちは霊的なことに思い切り酔っ払っていたのだ。金鉱を求めてやつれ細った山師が、最後の一口の食べ物を腹に入れ、手持ちの食料が底をついたとき、つるはしで金を掘り当てたようなものだ。一生涯続くと思っていた欲求不満から解放された喜びは尽きない。父親は金よりもすごいものを掘り当てたと感じている。しばらくは、父親はこの新しい宝物を一人で抱きしめるだろう。彼は、無限の鉱脈を、いま自分がほんの少しだけ引っかいたところだということには、まだ気がついてない。その鉱脈は、一生掘り続け、掘り当てたものを人に与えたときにだけ利益を生むものなのだ。 pp187-188
多くのAAメンバーが、霊的体験・目覚めを得るとこのような状態を体験してきたのです。
脱線
ところで、We have indulge in spiritual intoxication.を「私たちは霊的なことに思い切り酔っ払っていたのだ」のように訳すのはかなり意訳だし、原文のニュアンスが損なわれてしまうのではないでしょうか。シンプルに訳して「私たちは霊的陶酔に耽っていたのだ」とでもしとくと意味が通じやすくなると思います。
あとfrustrationを「欲求不満」と訳すとなんか意味が取りにくいですが、ここではfrustrationを心理学用語として使ってないでしょうから、「挫折」「失望」「落胆」とすれば分かりやすいと思います。(a lifetime of frustrationなので「生涯にわたる挫折/失望/落胆」でしょうか。そらアル中が酒が止まんないとそうなりますよね)。なんで「欲求不満」にしたんでしょうね。
なんか時々感じるんですが、ところどころにあるビッグブックの奇妙な翻訳が日本で変な侮蔑表現を生んだりしていません? the world of spiritual make-believeを「霊的な『ごっこ』の世界」という「??」な侮蔑的な訳にしちゃったり。素直に「霊的な見せかけの世界」でいいと思うのですが。
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さて、話をもどして、霊的体験・目覚めを体験した人はこのようになりやすいのは『宗教的経験の諸相』でも例が出てくることです(「第14・15講 聖徳の価値」に多い)。そして、それはそんなに心配することでもないように感じています。当人がステップ10、11、12を日々使っていけば、ピンクの雲に昇っちゃっても、いつか地に降りてくる時がやってくるからです。これは、僕の実体験でもあります。
僕も「ピンクの雲」に乗った
まぁ、やはりお恥ずかしながら、僕も思いっきりこの「ピンクの雲」に乗ったことがあります。僕がプログラムを経て霊的目覚めの始まりを経験したのが昨年の4月でしたが、そこからはすごかったです。
そりゃ、アルコホリズムという出口の見えない病で仕事やら信用やらなんやら失って「もうダメだ」とずっと感じていた状態から、プログラムを実行することで「解決を得た!神が解決だ!」と実感した時はもう心から嬉しかったですし、色んな思いがどばっと溢れてきました。
そんでこのブログを開設したのが去年の10月で、10月からの僕の書いてる記事というのは読んでもらうとわかると思うのですが、もう熱に浮かされたような感じです。
当時の記事は黒歴史として削除したい欲求もあるのですが、こういうのが残ってるとスポンシーに「俺もそうだったよ」という実例として見せる機会もあんじゃないかと思って残しています。恥の書き捨てですな。
ただ、恥ずかしい恥ずかしくないといった問題じゃない大問題も同時に発生しました。それは僕がプログラムを「逆さまに」解釈し始めたことです。これは、ほんとに危機でした。
12ステップの「逆さま」な誤った解釈
ビル.Wは「私たちは神ではない」という重要な指摘をしています(ビル.Wに問う(8) 不可知論者と神 等)。またA・カーツが『アルコホーリクス・アノニマスの歴史』で繰り返し強調しているように、AAは「私たちは神ではない」と主張し続けています。
しかし、僕が陥った解釈は「回復とは霊的体験・目覚めを得て素晴らしい人間になることである。神と自分との間の障害物を掃除してゴミがなくなったら、自分は素晴らしい人間になるはずだ。」という解釈でした。
ここに前提にされているのは「人はもともと素晴らしかったのだけれど、自己中心性というゴミを身につけたことにより素晴らしくなくなってしまった。なので自分の自己中心性を取り除けば、人は素晴らしくなれる。つまり、自己中心性の表れである恨み、恐れ、罪悪感、後悔を取り除けば人は素晴らしくなるに違いない」という前提です。
これは「私は神になれる」とニアリー・イコールになりますし、あるタイミングではイコールになってしまう考え方です。つまり、自分の古い考え方を12ステップっぽく装ったやつです。これはヤバイ。ステップ1.2がすかっと抜けている考え方ですね。
・・・自分は俗世間を超越したのだと言う。
...and say he is above worldly considerations. p.186
ビッグブックに書いてあることと同じです。そして、この発想をしてると、12ステップが逆転してしまいます。
誤った解釈は何を引き起こしたか
棚卸し
まずステップ10がおかしくなりました。日々繰り返す4.5である日々の棚卸しは、日々「自分は神じゃない」ことに気づくためのものであるはずです。ビッグブックに書いてある通り、最初のステップ4.5でもそうだったはずです。ならステップ10でも同じです。
ですが上記の発想の上では「自己中心性の表れである恨みや恐れを瞬時に見つけ出し、掃除し、完璧で気分のいい状態を維持し続けるため」のものになっていきます。ようは完璧を目指すためのものになります。それ、神目指してね?
いや、それは無理があるだろ、と今は思うのですが、熱狂的にやりました。結果、できないことをできると言い張ってやるので、精神的にも肉体的にも無理が来ます。クソ疲れる。
あと、棚卸しでは「役に立たない考え方」を知ることが大切なのですが、そうではなくて自分の中の「自分が気に入らない感情」ばっか見つけようとしたので、もうしっちゃかめっちゃかです。
ステップ6.7
ステップ6.7の解釈もおかしくなります。ステップ6.7は「神に取り除いてもらう」「謙虚に神に求めた」というステップ4.5で理解した性格上の欠点を「力」である神に取り除いてもらうステップです。自分なりに理解した神に対して自分に正直に向き合い、信仰を深めていくステップですね。ビッグブックをまともに読めばこう解釈するはずです。
しかし、逆転した解釈に立つと「自分の力で自分の行動を、自分がなりたい理想に変えて、自分で自分の欠点をなんとしても取り除くステップ」になりました。どこが謙虚やねん。ステップ7の祈りにある
あなたと、そして仲間たちの役に立ちたいと願う私にとって、行く手の邪魔になる・・・
...in the way of my usefulness to you and my fellows. p.109
という大切なポイントは吹き飛びました。ちなみにここでの「仲間 fellows」は共同体のメンバーだけじゃなくて、家庭、職場、地域の周囲の人々を含みます。
ステップ8.9
極め付けはステップ8.9です。いろんなAAメンバーの話を聞いていると、多くの仲間が一回は陥る失敗のようですが、自分にとって都合の悪い事実や感情を「埋め合わせによってなかったことにしようとする」ということをし始めました。つまり、ここでも自分の気分の良さ、完璧さを優先していました。
これが極め付けにキツくて、今年の6月から7月はこの自作蟻地獄のなかにどっぷりいて身動きが取れなくなってました。浮砂(流砂 quicksand)ってやつですね。皮膚炎の再発もこの頃です。
具体的には、とある過去の出来事への強いこだわりを「これは埋め合わせが足りないに違いない」と罪悪感も後悔も感じてないのに、無理くそ人に謝罪することで取り除こうとしました。しかし、さすがに第三者が大きく関わることなのでスポンサーに相談したところ、「うーん・・・」みたいな感じになったのでなんとか踏みとどまれました。重大な埋め合わせにはスポンサーとの相談が必須だって例ですね。
こういった僕のやり方ってのは、自分が気分良くいることに過剰にこだわり、自分にとって気分の悪い記憶や出来事を埋め合わせで取り除こうとすることなので、こりゃもう12ステップじゃありません。
これらがなぜ「逆転」かというと、「解決」が「自分を超えた偉大な力」から「自分の力」に気づかないうちに180度すり替わっているからです。
上記のやり方はどれも「自分は神ではない」ことを忘れていくやり方です。それは、やればやるほど、苦しくなります。
どうやって「ピンクの雲」から降りたか
そんなこんなな、なんといいますか、まぁマヌケなことを1年ちょいずっとやってたんですが、ある時気づきました「俺のやってるステップおかしいわ」と。
なぜ気づけたかというと、神の保護としか言えないさまざまな出来事が重なっていたのですが、やはりスポンシーとのステップワークが大きかったです。自分の解釈の歪みは、必ずスポンシーとのステップワークに出てくると僕は感じています。
スポンシーとビッグブックを読み合わせていると「あれ、俺の解釈はここに書かれていることと、なんか違ってないか?俺のスポンシーへのアプローチは、なんかおかしくないか?」と思えてきました。
自分が自分のスポンサーだったら「あんたステップ1.2がすっかり抜けてますよ」と突っ込んだと思います。スポンシーとのステップワークの歪みを通じて、そんなことを感じ始めました。
また人の棚卸しを見ることも、重要な学びを僕に運んでくれました。
ほんと、スポンシーとのステップワークではいろんなことがあって、いろんな失敗をして、いろんなことを学ばせて貰っています。手助けする自分が助けられるとは、とても現実的にその通りです。
他のことが上手くいかなくても、12番目のステップは地に足をつけてくれました。
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ほんでもって、今年の8月.9月には自分のステップの誤った「役に立たない解釈」を捨て、全体の解釈をいろんな人に手助けしてもらいながら、ビッグブックに戻って落ち着かせることになりました。つまり「私たちは神ではない」ってことで、地面に降りてきたわけです(ただいま。
ピンクの雲ってやつは振り返ってみると結構楽しくて、乗っておいてよかったと思っています。ああいう血気盛んな時も経験しておくと、自分のマヌケっぷりを知れて人に寛容になれます。ただほんと苦しいので、できれば二度とごめんです。
今はいろいろ、ステップの解釈も変わりました。完全なる自分の掃除はそもそもの目的ではないこと、ステップ10は「自分は神ではない」ことを知ることがキモであること、その上での祈りと黙想は次第に真摯に恵みを実感するものになっていくこと、ステップ12は欲深で自己チューなステップであること、などなどを実感しています。
神の意志を求め、神に助けられながら、神の意志に反したしょーもないことばっかしてる自分を知るってのは、本当に大事なことなんです。
なので「いや、お前、今でもピンクの雲に乗ってんだろうが」というツッコミはまぁ、僕はそんなもんだということで。
途方にくれ挫折した知性、けれども神の現前を信ずる心ーーこれが、自己自身に対しても現実に対しても真剣な、そしてどこまでも宗教的な人の状況なのである。
W.ジェイムズ『宗教的経験の諸相』岩波文庫 下巻 p.285