しましまな日々

12ステップを通じた問題からの回復について

ステップ11の祈りと黙想は決してできなかったことを可能にする神の力を手にできる

ステップ11の祈りと黙想で私たちは何を得るのでしょうか?それは、神の意思を知ることとそれを実行する神の力です。

 

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祈りと黙想で与えられるものは計り知れない価値がある

祈りと黙想、つまりステップ11においていつも思うことがあります。祈りと黙想で何を求めるか、それは最終的にはステップの文面にあるように「神の意思を知ることとそれを実行する力だけ」になると思うのですが、神の意思も力も、自分ができることをやろうとしているときには決して与えられないし示されないということです。私の場合はいつもそうです。

たとえば、アルコホーリクにとって自分の力でできることはアルコールを飲むことです、アルコールを飲むことに関して神の力が必要かというと、それは明確にノーです。ではアルコホーリクにとってできないことは、アルコールを飲まないで生きることです、それに関しては神の力は必ず必要であるし、今日一日を肉体的にも感情的にもシラフで過ごすことは神の御意思なので、神の力が祈りと黙想と通じて与えられます。

AC、共依存の場合ですと、人を恐れることで病的依存・反応をする、病的支配・コントロールをしよう、されようとすることは自分の力でできますが、人を恐れないこと、病的関係という嗜癖を使わないことは自分の力ではできないこと、に一般的にはなるかと思います。

また、性格上の欠点を使った問題の中で生きる古い生き方も、自分の力でできることでありましょう。逆を言えば、12ステップを通じて与えられた新しい生き方は自分の力では決してできるものではないといいうことだと私は確信しています。

神の意思と力は、私が自分の力では決してできないことに取り組んでいるときに力強く示されるものです。それは具体的には、霊的成長のための行動のステップである4−12全てになります。

ステップ11の前提はステップ10であり、ステップ10の前提はそれ以前の全てのステップ

12ステップにおける祈りと黙想を効果的に行うには、ステップ6、7で古い行動パターンを今日1日使わず、新しい行動パターンを使う決心を毎日していること、ステップ10で不快感情を毎日掃除していることが不可欠です。そして、これらのステップは全て連動していると私は感じています。ステップ10のスポットチェックはステップ11の中でその結果が与えられるものです。その具体例を書かせていただきましょう。

忍耐に偽装された恐れが原因の不正直行動

たとえば、忍耐というカードを対人関係で切ろうと思うことがあります。ですが、そこで注意しなければいけないのは、その忍耐は忍耐に偽装した不正直行動ではないか、ということです。具体的に言いますと、不正直行動の背後には恐れという性格上の欠点があることが私の場合はほとんどいつもなのですが、相手に自分の気持ちや意図をしっかり伝える努力をするべきであるのに、自分が傷つくことを恐れる、自分の評価が、自尊心が、対人関係が、感情の安全が傷つくことを恐れて、めんどうな正直さの努力を放棄して、楽な不正直行動に走ろうとすることがあります。そういうときは私の場合は「自分の感情や相手の行動の事実をなかったことにする」「相手の意図や感情を聞きもせず自分の中で勝手に捏造する」という対人関係での病的行動をとることが多いようです。その結果、必ず不快感情は暴走します。

相手に伝えるべき責任を放棄して、相手の話を聞きもせず安易に「この人は病んでいるのだ」と謎の上から目線で諦めるという不正直行動をとろうとする時もあります笑 これをしている限り、私の人生はどうにもならないままです。

正直な行動に偽装された利己的動機からの配慮の欠如

逆に、正直さに偽装して利己的動機から配慮が欠如した行動を取ろうとすることもあります。それは例えば、相手の人生の課題に頼まれてもないのに踏み込んで頼まれてもないアドバイスをして「正直に伝えてあげた」なんて思うことです。

これらの行動は、自分のステップ6、7での新しい生き方を破綻させるものですので、できる限り全力で自分を見張らなければなりません。その見張りの行動は、私にとってはステップ10のスポットチェックと、統合作業です。

 どうやって虚偽を見破るのか?それには、神の力を与えていただくしかない

この偽装した自分の動機をステップ10のスポットチェックでどう見破るか、になりますが、これはもう自分の力という人間業では不可能だと私は思っています。しかし、これを放置すると虚偽に飲み込まれて、強迫観念にコロッと騙されて、スリップ確定、といったことになります。

この自らの虚偽をどう見破るか、それは神の力を祈りと黙想で求める他はないと私は感じています。これが自分の力で見破れるなら、私の人生はどうにもならなくなっていなかったはずです

現在の自分の行動、感情、考え方が、不正直で利己的で配慮が欠如し、恐れから出ているものでないか、それをスポットチェックや統合作業で求める時、最後の判断は私の場合、神を信頼し神に委ねる信頼と愛の時間の中で自分を振り返ることであたえられています。これは自分では決してできないことで、自分を超えた偉大な力である神の領域です。

また、祈りと黙想の時間における「神に受け入れられている」という圧倒的な安心感と信頼の中でのみ、私は自分を建設的に振り返らせていただくことができます。その建設的な振り返りから、ステップ6、7は進んでいきます。

 力のない私たちには、間違いや失敗は当然ある

もちろん、間違った判断を下すことはあります。それは神の責任ではなく、自分がさらに霊的な成長をするチャンスです。そのチャンスに失敗しても、最悪スリップするだけですし、全世界が破滅するわけでも、消滅するわけでもなく、明日も神は朝日を登らせられるわけです。なので、今日一日、起きてから寝るまで、自分の心を見張り続けること。そのための霊的道具としてステップ10、11はあると強く感じています。

私たちは今日一日、自分の心を精一杯見張りたいものですし、またシラフで生きたければそうしなければなりません。

平安が私たちと共にありますように。