しましまな日々

12ステップを通じた問題からの回復について

ステップ12のメッセージ活動を意識してミーティングにのぞむ楽しさ

私たちはミーティングで「経験と力と希望」を分かち合います。

私は、自分の生活の問題やトラブルの愚痴や毒吐き、また他の人には共感しようのない個人の出来事などを「分かち合い」と称して話していたことがありましたが、それは経験と希望と力の「分かち合い」ではなくそこにいる人たちに問題を「放り投げ」て「なかったことにしよう」とする試みに過ぎませんでした。なんとも愛のないことです。

当然、放り投げてなかったことにしたはずの恨み、恐れ、罪悪感、後悔の不快感情は倍の力を持ってすぐに襲いかかってくるのでした笑 これでは、ミーティングに出席していてもあかわらず人生はどうにもならなくなるばかりでした。

今ははっきりわかるのですが、そういったことはステップ10の日々の棚卸しの対象であり、「おろす」と称してミーティングで人に「放り投げる」ものではありません。それはまた機会があれば書かせていただきますが、今回は「経験と力と希望」をミーティングで分かち合う、つまり私の「このメッセージ」を運ぶ楽しさと恵みについて書かせていただきます。 

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ミーティングが楽しくて仕方なくなる体験

「与えられるより、与える方が幸いである」と12ステップグループでは言われます。最初それを聞いた時は「なんか説教くさいな、綺麗事だろう」と思ったものですが、今では「真実である」と心から言うことができます。

以前は「なんかプログラムのいい話転がってないか?」といった、物欲しげな態度でミーティングにのぞむことも私は多かったと今は思います(当時はそうは思っていなかったのですが笑)。霊的な目覚めを得た現在は、「このミーティングもまた素晴らしいだろう。だから私は私が与えられた最も素晴らしいものを(発言の機会があれば)分かち合わさせていただこう。ミーティングは自分のステップ12のメッセージ活動そのものなのだから」と思いを定めてミーティングにのぞんでいます。

それは誰かから与えられようと虎視淡々と願う姿勢ではなく、はるかに自由と楽しさのある姿勢だと感じています。

ただ、共依存症の人の場合ですと「私の話で相手のすべきことを教えてやろう。私のメッセージで相手を変えてやろう。なぜなら、私が相手を変えられなかったらこのミーティングには価値がないからだ!」という強迫観念から共依存症のスリップ確定!となることもあるので、そこは私は要注意しています笑

どうしているのか

では、上記の姿勢をどうやって思い定めているか、を書かせていただきます。これは私の現在の個人例ですので、それぞれのやり方があるのは言うまでもありません。

まず、私はここ3ヶ月ほどは、週約5グループのミーティングに恵まれていますので、以下の自分の分かち合いのテーマを決めています。

・毎月のテーマ ・毎週のテーマ ・今日のテーマ

これはたとえば、先月の9月ですと ・毎月のテーマは「恐れることなくミーティングで自分なりに理解した神から与えられた恵みを語らせていただく月」でした。その毎月のテーマの上に ・毎週のテーマ、例えば「今週はステップ11の祈りと黙想における神の約束」とします。そして ・今日のテーマを「ステップ11の自分の一形態であるACの統合作業から与えられた人間関係嗜癖への気づきと、それに伴ったステップ11の新たな変化。新たに実現した神の約束」にする、などです。

こうしていくと、自分の伝えたいことの土台が明確化します。ここでの私の原則は「個人よりも原理を」なので、ベースは自分個人の話ではなく、当然12ステップです。

そしてミーティングの前日から当日に、3枚のメモ用紙に「かつてどうだったか、なにがおこって、いまどうなっているのか、これからどうなりたいのか」の要点を書いてまとめます。これが私の経験と力と希望のメッセージの骨子になります。

これでミーティングの準備が整うので(慣れれば手間にも感じませんし時間もかかりません。習慣化ですね)「よし、発言の機会があってもなくても、私は自分に与えられた恵みを分かち合う準備が整っている!」とリラックスしてミーティングに参加することができます。このやり方が私には合っているということなのでしょう。

そうすると不思議なことに、自分が発言できようとできまいと、ミーティングでの他の方の発言がどんどん耳に入ってきます。様々な学びや気づき、慰め、励まし、支え、警告などが与えられるのです。また、自分の発言から自分が気づかされることもさらに増え、プログラムが深まり続けています。まさにミーティング後は感謝に満ちるのでした。

何が得られたか

上記は、なにかを受け取る時はしっかりと手を開いて受け取る準備が整っていないと、受け取ることはできないと言うことなのだと強く感じています。自分のどうでもいい愚痴や毒吐き、プログラムと関係のない話をいつ放り投げようかと両手が塞がっている(頭がいっぱいになっている)と、差し出されたものも受け取りようがなかったと言うのがかつての私の実際だったのだろうと強く感じています。まさに「自分のことだけにかかりっきりになっている」ということです。ビギナーはある程度仕方ないと思うのですが、いつまでもビギナーでいられるわけではありません。

受け取ることは、漫然とできることではないと感じています。ここでも、私たちは今までやってこなかったことを神から訓練していただく試行錯誤のプロセスのなかにいるのでしょう。訓練には非常な苦労がつきものですが、成長の喜びはそれを遥かに上回るものです。

ここでの「成長」とは「他人を変えようとせずに自分を変えることだけに今日一日だけ全力を尽くす」ことにより神から与えられるものです。

 

私たちが今日一日、それぞれの共同体の支えと励ましを豊かに受け取ることができますように