しましまな日々

12ステップを通じた問題からの回復について

黙想ってなにすればいいの?から始まった祈りと黙想の旅

「祈りと黙想っていうけども、祈りはなんとなくわかっけど黙想ってなんやねん?」これがステップ11に取り組み始めた直後の私の感想でした。いや、それなにさ?って感じです。だってやったことがなかったから。

 

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 広辞苑によると

広辞苑(第五版)で黙想を引くとこうあります。

 

もく-そう【黙想】無言で考えにふけること。黙考

 

これを読んだ時は「え、じゃあ被害妄想とかも黙想なのか?」と思いました笑 

話は脱線しますが、ジョー・マキューは辞書をひいて言葉の意味を確認することの大切さを書いています。アルコホーリク的鋭い知性は「わかったふり」が得意ですので(私のことです)言葉の意味も一つ一つ確認することは謙虚かつ必要な過程だと思います。

 

さらに、ちょっと脱線

ビッグブックには黙想という言葉は meditation とさらに devotion という言葉でも出てきます(原著第四版p.87 日本語訳p.125 日本語訳では「祈り」となっています)。私は個人的に、クリスチャンのディボーションを多く参考にした経験があるので、ちょっと脱線して確認してみましょう。

それぞれは研究社英和大辞典(第六版)によると

 

med•i•ta•tion 1.熟慮,考慮;(特に宗教的)黙想,沈思 2.黙想[瞑想,沈思]録 

de•vo•tion 1.献身,専念,傾倒;[ある目的・主義のために]捧げること;熱情,愛着 2.信心,信仰,帰依  3.(特に私的な)祈祷(式),勤行 4.(古)献納,奉献

 

とあります。meditationはイメージがつきやすいかと思いますが、devotionはピンとこないかもしれません。

ディボーションはクリスチャンの方はイメージしやすいと思うのですが、具体的には日課書や聖書を読みながら(主に早朝に)黙想をすることを指すことが多いかと思います(上記大辞典の3の意味)。『ドクターボブと古き良き仲間たち』ではアクロンのAAが聖書(特にヤコブの手紙)やアパ・ルームを用いて朝のディボーションをしていたことが書かれていましたね。『今日を新たに』『ビルはこう思う』などはAA流の日課書でしょう。

なのでこのビッグブックの文脈では、聖書を使ったディボーションや各個人が家庭や個人で行ったディボーション、また何名かのグループで行っていたディボーションをイメージしていると私は思います。もちろん、それはオックスフォードグループのように特定の宗教ではないものも含まれるでしょう(オックスフォードグループは特定の宗教ではないのか、という議論は脇に置いといてください笑)。

ビッグブックのこの箇所でmeditationだけでなく、devotionが出てきたのは、この世界にはさまざまな黙想のやり方があり、それはそれぞれ参考になる、と言うことであろうと思います。実際、以後の文章にはそう書いてあります。

 

なんか、脱線が長くなったのですが、何が言いたかったかというと「私たちのプログラムは宗教的というより霊的なプログラムであるのだから、瞑想・黙想には当然多様なあり方があり、その多様性をAAは受け入れる」ということです。個人として聖書を使いたかったら使えばいいし、特定の宗教・宗派のやり方がよければそれでいいし、違う宗教のテキストを使いたかったら使えばいいし、宗教ではないマインドフルネスや自己流のやり方がよければそれでいいのです。

AAのmeditationという語は特定の宗教におけるdevotionを包摂している、とも言えるでしょう。W.ジェイムズ的に言うと、重要なのはやり方よりも、どのように役に立ったのかと言う結果です。

私の場合はどうだったか

私の場合は祈りと黙想に取り組み始めたのが昨年(20年)4月です。取り組みはじめたはいいものの、なにをどうやるかはほとんどわかりませんでした。スポンサーによると「俺は夜寝る時、書いて祈って寝る」とは言っていて、それが彼の霊的成長に役立っていることは伝わってきましたが、では自分は?となるとイメージがつきませんでした。

そこでとりあえずやったのが、ビッグブックの提案を受け入れて、祈りと黙想に慣れている人たちに聞くことでした。お世話になっている心理士にマインドフルネスのやり方を教えてもらう。住んでいる街の教会に連絡をとって日曜の礼拝に行き、牧師に聞く。教会の祈祷会に参加して参加者に聞く。図書館に行き本を調べる。祈りと黙想に取り組んでいる12ステップグループメンバーの話を聞く。12ステップ本を読んで学ぶ。などなどです。

祈りと黙想のタイミングはビッグブックのシンプルな「朝、夜、決められない時」に従いました。そんな試行錯誤から数名でオンライン黙想会を開催するようになるなど、「とりあえずやってみる」というトライアル・アンド・エラーの日々が続きました。

 

そんな取り組みの中で、自分なりの祈りと黙想のやり方が「これで続けよう」と納得できたのは祈りと黙想を毎日続けて6ヶ月がたってしばらくのこと、昨年の10月以降のことでした。そこからは自然にできるようになってきましたが、6ヶ月までは毎日かなりしんどかったです笑 今までしたことのないことを習慣化しようとすることは苦労が伴います。ジョー・マキューも

「ステップ11は大へんな作業である。このステップに取り組むには最初の10個のステップという基礎が必要になるし、これからずっと続けていかなければならないからである」『回復の「ステップ」』p.144

と言っています。私も今でも奮闘は続いていますが、最初の6ヶ月にくらべるとずっと楽に自然にできています。というか、私の場合は最初の6ヶ月はマジでしんどかったです^^;  なので、いろんな方に支えていただきました。

「どのよう役に立ったか」という個人の例

昨日、私は京都に行ってきました。私は大学生の時、18歳から京都に住んでいたのですが、10年前に京都で通院していた病院に行政手続き用の書類をもらいにいかなければならないので、久しぶりに京都に行ったのでした。

私の大学時代は今から振り返れば毎日が地獄のようなもので、人生の中でも最も暗い記憶の一つの6年間(留年しているので)となっています。アルコホリズムの深みにどんどんとはまって行って身動きが今日1日づつ取れなくなっていく恐怖はけっこう身に沁みるものがあります。

さて、そんな思い出を思い出しながら、かつて通った病院へ行き書類を貰いました。そこで「今日は京都で祈りと黙想をしてみよう」とふと思いました。私がやる祈りと黙想には歩きながら行う祈りと黙想がありますので、14年前に住んだ家やアパート、大学や地域といった苦しい記憶の場所を3時間ほど歩きながら黙想をしてきたのです。

その黙想で何が起こったかというのは、とても個人的なことなので書ききれませんが、私が実感したのは、今ここで私は自分なりに理解したハイヤーパワーと2人で歩いているという確信です。かつて独りで苦しんでいたと思い込んでいた時も、私のそばにはいつも神が共にいてくれたし、社会や知人、家族などの人々が共にいてくれたという事実を実感として知りました。

結論から言うと、神と触れ合い、神の意思と力を確信した本当に素晴らしい3時間でした。この約11ヶ月、祈りと黙想に「こんなめんどくさいことやってられんわ!」と投げ出しそうになりながらも毎日取り組んできて本当によかったと感じました笑 

その祈りと黙想が終わった後は、かつての過去と現在との記憶がつながり、神から与えられた生きる力に溢れている自分がいました。

なにが大切だったか

私にとって、昨日の京都での歩きながらの祈りと黙想はこの約11ヶ月の一つの佳境と言えるものでした。そこで、祈りと黙想について何が大切なのかを知ることができました。

それはステップ4から9をステップ10で毎日続けることによって自分の掃除をし続けること。それによって神と自分との間にある障害物を取り除き続けること、そしてその上で神との意識的触れ合いを毎日深めること、そこで与えられたものを無償で手渡そうとする努力を続けることです。

そして私は昨日、私がステップ3の段階でスポンサーから言われた「あなたは神を信じるだけでは幸せにはなれませんよ」という言葉、そしてビッグブックの「信じる、あるいは信じてみようという気があると答えた人の成長の旅は始まっていると断言できる。」という言葉は本当のことだったと確信できたのでした。

 

霧のようなうれいも、やみのような恐れも、安らぎと感謝にとって変わる日がきます。私たちにはできませんが、私たちを超えた偉大な力にはそれが可能なのです。私がその生き証人です。