しましまな日々

12ステップを通じた問題からの回復について

変化・成長と自己受容

早いもので、私がスポンサーを与えられ12ステップに取り組みはじめて、はや一年以上がたちました。

その間にいろいろなことがありました。生活のこと、共同体のこと、家族のこと、信仰のこと、友人のこと、医療のこと、制度のこと、プログラムのこと、、、たった一年ですが、本当にいろいろなことがありました。また、ここ数ヶ月は、これからの生活のことで大きな変化を迎える時期に差し掛かってきましたので、いろいろしんどいことや、思い返すこともありました。

そんな中で、今現在自分が立っているところから「変化・成長と自己受容」ということを考えていました。

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現在地点までくるのに大切だったこと

現在の私は、自分の12ステップを生き方の原理とする霊的な生き方は変化・成長自己受容という両輪によって成り立つものだと考えています。私は日々直面する課題にステップ10で日々の棚卸しをすること・新しい生き方を身につけ実践すること・自分の人生の責任を取る努力をすること、を繰り返します。それはビッグブックにあるように「成長への道標」(p.87)である12ステップに沿って日々霊的な成長、つまり変化を目指しているからです。

しかしビッグブックはこうも言っています。「私たちの誰一人として、これらの原理を完全に実行できたという人はいないのだ。」(pp.86-87)。12&12の記述も参照するならば、ステップ1以外を完全にできるということはないのです。

そして自分に正直になるならば、日々ステップ10でステップ4から9に毎日取り組みますが、それらを今日一日の中で完全にできるということはこの1年間ありませんでした

 

それでもなんとかやってこれたのは、共同体の理解と励ましという素晴らしい支えがあったからです。ですが再度、自分に正直になるならば、それだけでは無理だということを認めなければなりません。プログラムを完全に実行はできないありのままの自分を受け入れる、認めるという自己受容なしには、どこかで嫌気がさしてやめてしまっていただろうというのが実感です。

しかし、12ステップにおいてステップ1から直面しなければならないことは自己受容ではなく「あなたは幸せに長生きしたいのならば変化しなければならない」ということです。

 

アルコホーリクやAC・共依存症者は霊的目覚め・霊的体験という神がもたらしてくれる奥深い変化を得なければ死が待っているという現実があり、ステップ1の段階で「このままの自分でいいんだ」と自己受容したアルコホーリクはそのまま飲み続けて死ぬでしょうし、AC・共依存症者は大混乱の中での死を迎えるでしょう。

そして行動のプログラムのステップ4〜10も取り組む人に全力での変化を要求するものだと私は思います。これらのどのステップも神に頼りながら全力でやる必要が私にはあります。

 

ではプログラムには「変化・成長」のみで「自己受容」はないのでしょうか。私は「ある」と思います。それはステップ11「祈りと黙想」です。

 

祈りと黙想での「自分を受け入れること」

ステップ4から10も、またサービスワークやスポンシーとのステップワーク、メッセージ活動などのステップ12も、さまざまな自分の課題・欠点に直面し続けるものだと私は思います。そんな中で、自分に正直になるならば、どれだけ全力を尽くそうと努力しても完全にプログラムを実行できない自分を発見します。つまり「自分は神ではない」ということです。

ですが、私のステップ11での「祈りと黙想」の時間は、いくつもの課題がある神ではない自分を、神が受け入れてくれていることを実感として体験する時間としての側面があります。神が受け入れてくださっているどこまでも課題のある不完全な自分を、自分も受け入れる、そういった神と私の間での自己受容の時間となっています。

自分で自分を受け入れることは私にはできませんでした。しかし、神が受け入れてくださっている自分を知ると、私は自分を受け入れることができはじめました。

 

そのような時間は起きてから寝るまで、一日に複数回取っていますが、安らぎに満ちた時間になっています。その安らぎと愛の時間で、今日一日の中でプログラムを実践する力を受け取っています。

祈りは、自分にはできないことを認めてこそ祈りとなるのでしょう。

 

「平安の祈り」の深まり

神との関係における自己受容は、プログラムに取り組み奥深い「変化」が起こってから、少しずつできるようになっていることです。「ありのままの自分でいい」という言葉を必要な変化を拒否する言い訳に使ったこともありますが、それは苦しいだけでした。

変える必要のあることを受け入れようとすると、苦しむだけです。同時に、変えられないことを受け入れようとすることも同様です。そして、それを見分ける賢さは私たちにはなく、その二つを見分ける賢さを与えてくれるのは神です。だからこそ私たちは自分の大掃除をし続けて神と自分との間の障害を取り除き、神の意思を知りそれを実践する力だけを求め続けるのでしょう。

 

なので、私の場合は自己受容のためにはプログラムに沿って力を振り絞って変化・成長を目指す努力が必要です。同時に、変化・成長を目指す努力のためには自己受容が必要です。変化・成長自己受容は車の両輪のようなもので、どちらか片方だけでは大事故を起こしてしまうものだと現在の私は感じています。

社会の中で社会の一員として、共同体の中で共同体のメンバーの一員として、そしてこの世界の中で神に愛されている者として生きるのは、とても素敵で幸福なことです。自分が何もかも取り仕切れる神であると信仰しているときは、できなかったことです。

 

 

追伸

少し前に「どのような祈りと黙想をしていますか?」という質問をいただきました。現在の私がとても愛している祈りと黙想の一つは、日々の食事ごとの祈りと黙想です。食事ごとに、どの食材の調理、流通、販売、管理、生産、保存、加工、開発なども、自分の力ではできないことを思い起こしています。