しましまな日々

12ステップを通じた問題からの回復について

しゃかいへんかく

依存症からの「回復」であったり、ほか様々なアディクション分野に関わる啓発活動をされておられる方々がおられます。

社会の中に偏見などがあるよりも、そのようなものが取り去られた方がいいのは当然だと思います。またそれがなくなっていけば、今も苦しむアルコホーリクにとってもいいことなのだろうな、と想像しています。

僕自身は、そういった活動を地道にやられている方々を尊敬しています。

 

社会を変えることについて

現在の僕自身は、12ステップグループの中でも外でも、そういった啓発や社会変革の運動とはできる限り注意深く距離を取るように努めています。

このブログで自分の話を書くとき、できる限り自分に正直に「神が自分を回復させてくれた」という事実をありのままに毎回しっかり書くようにしているのも、その理由もあります。

「回復」という言葉には現在、様々なイメージが付与されていますが、その中でこのブログでは「回復」を「絶望的なアルコホーリク(他)が12ステップを経て得られた霊的体験・目覚めによって神との関係を回復し、解決を得ること」と定義していることを、その事実によって伝えることができるからです。

 

さて、閑話休題。なぜ距離をとっているのか。

ではなぜ社会変革や啓発活動と距離をとるかと言えば、それが嫌いなわけではありません。冒頭に書いたように、地道に様々な活動をされている方々には本当に頭が下がる思いです。

と、同時に、これは僕自身の話なのですが、かつて僕は社会変革の現場に属していたことがあります。僕は自分には社会を変える力があると信じて、そういった活動をしていました。その中で、すごくいい勉強もさせてもらいましたし、嬉しいことも、つらいこともありました。

社会変革の現場に向き合うご経験のある方はお分かりだと思うのですが、その現場には様々な矛盾や苦痛があります。

憎しみを原動力に運動を進めて破綻してしまうこと、愛と支配を取り違えてしまうこと、言うこととやっていることがちがってしまう現実、、、などなどです。それは誰が悪いとか、何が悪い、とかではなく、どうしても人間のやることでは起こってしまうことです。

多くの方がそのことを経験し、また自覚と覚悟をもって他者のため、自分たちのために活動されています。社会変革運動は決してキレイゴトでできる活動ではありません。

うらみやつらみ

以前はそういった矛盾をあげつらって「だからあいつらダメなんだよ!」と恨みつらみを爆発させることもしばしばでした。ですが、ステップ4・5を通して分かったことは、僕自身もキッチリとやっちゃいけないことをやってきてしまっている、ということです。まぁ、自分というのは本当にそんなもんです。

 

社会を変えるために、何かの運動や活動を進めようと思ったら、当然、様々な内外の矛盾にも直面しますし、それと格闘すべきところは格闘し、受け流すべきところは受け流す心のしなやかさや健全さ、人格の成熟や倫理感や責任感などが求められます。それを職業にするならなおさらです。そうして様々な方が、現実と向き合い、奮闘しながら取り組んでおられます。

そして自分自身について言えば、僕にはそういった現場の矛盾を受け止める力と能力というのはありませんでした。これは、本当にそう思います。

社会変革の現場における現実を受け止めるだけの力と能力が僕にはないということは、つまり、僕にはそれはできない、ということです。

 

情けない話にも感じますが「できないことはできません」と頭を下げて言うことが僕にはどうしても必要です。そうでないと、ボトルが近づいてきてしまいます。できる人はやればいいし、僕みたくできない人はどうがんばってもやれないのです。

できないことを「できる」と言い張るのは不誠実です。この不誠実を僕は今まで、散々やってます。

じゃあ、なにもしないの?

社会を変えるという大きな仕事は、その仕事と能力を神から与えられた人がやっていかれるでしょう。

じゃあ僕はどうすのか?なにもしないのか?

僕には僕に与えられた仕事があります。それは今苦しんでいるアルコホーリクにメッセージを運ぶことです。12ステップの回復のプログラムを学び、守り、伝える責任を果たすことです。特に具体的には、スポンサーを務めることです。

そうしていると、僕には社会は変えられなかったけれど、神が自分を変えてくれていることには気づけます。今の僕にはそれが精一杯ですし、自分のためにやっていることですので納得できます。

まぁ、これからどうなるかは僕にはわからないんですが、わからんこと考えても仕方ありません。

 まとめという名の今現在

かつて僕がもとめた自分像というのは、まぁこう、社会の矛盾を変革させる闘士みたいな(小っ恥ずかしいな)ものだったのですが、現在はそんなこんなです。でも、少なくとも飲んでないので幸せではあります。

かつては「それでいいかな」とは決して全くちっとも思えませんでしたが、「それでいいかな」と今は思えるようになったのは、なにかしらの成長なのでありましょうね(そう信じたいです笑)。

 

「私の責任」


誰かが
どこかで助けを求めたら
必ずそこにAAの(愛の)手が
あるようにしたい。
それは私の責任だ。

 

I am responsible...


When anyone,
anywhere,
reaches out for help,
I want the hand of A.A.
always to be there.
And for that:
I am responsible.

 

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