滋賀は台風の中です。外は強い風が吹いてますよ。みなさん、いかがお過ごしでしょうか。
コントロールは本来悪いものじゃない
私たちにはコントロール欲求というものがあります。時々勘違いされていますが、コントロール欲求というものは本来、良いものです。
僕はスポンシーに、乳幼児の例を時々使います。養育者が乳幼児の周囲の環境をコントロールしなかったら、その子どもは非常に危険な状態に置かれることになりますよね。コントロールを手放して危険に放置することが良いこと、なんてのは言わないわけです。それはネグレクトという虐待です。
ですが、私たちにもともと備わっている良いものであるコントロール欲求も、その本来の働きを超えて、破壊的な作用を引き起こすことがあります。それはその欲求が「自分の意思 Self-will」に導かれている時です。
ステップ3で直面するように、アルコホーリクは「自分の意志 Self-will」によって破滅に突き進んでるわけですが、ここらへんを今の日本語のビッグブックは「頑固な自我」とか訳しちゃってるから、なんか頑固者的なニュアンスになって、わけわからなくなってます。
「神の意思 God-will」と「自分の意思 Self-will」との対立的関係が見えにくくなっちゃってますね。そこは、スポンサーシップの中でフォローアップするようにしています。
自律の向こう側
閑話休題。
ただ、全てを取り仕切ろうとする(コントロールしようとする)自分の意思の力だけで12ステップはやれないものです。
私たちはステップ2でも、3でも、5でも、9でも、11でも、どのような結果が与えられるか、自分にはわからなかったのではかったでしょうか。それでも私たちは、自分を超えた力が私たちを健康な心に戻してくれると信じて、それらのステップを実行しましたし、今日もしています。
そこで与えられた結果が、私たちにとって都合の悪いものであっても、不愉快なものであっても、自分を超えた力が与えてくれたものは自分に必要なものだったし、良いものでした。
「神の意思 God-will」は私たちにとって、いつも良いものだったのです。霊的体験・目覚めを得る中で、私たちはそれを体験するでしょう。
ですので、12ステップを生き方の原理とするのならば、自律(自分をコントロールすること)を諦めなくてはならない局面は来るのです。信仰(Faith)とは、それを受け入れられるだけのハイヤーパワーへの信頼なのでしょうね。
原理はルールを超えている
12ステップは生き方の原理であり、生き方のルールではありません。そもそも、アルコホーリクはアルコホリズムの泥沼の中で、自作ルールで自他をがんじがらめにしているものです。
意思の力を強く持って飲酒をやめなくてはならない、飲み方をコントロールしなければならない、バレてはならない、人に口出しされてはならない、仕事をしながらでも上手く飲まなきゃならない、できないというのは言ってはならない、舐められちゃいけない、などなどなどなどなど…………。全部僕なんですけどね。はぢかちー。
12ステップはそういった自作ルールを打ち砕くものでもあります。「そもそもあなた、アルコールをコントロールできないでしょうよ」ってステップ1から突きつけられるわけですし、おすし。
その後のステップもそれぞれが、自分の意思ごと自作ルールを打ち砕く作用も持っています。
そして、プログラムを生きる中で、私たちの人生を導いてきた「自分の意思 Self-will」は、一見役に立つように見えても、実は役に立たないものだったことがわかってきます。
12ステップ共同体の中にもさまざまなルールがある
だから「原理よりもルールを」とすると12ステップの現在地と目的地を見失うことになるのです。私たちが作り出したルールの多くは、「自分の意思 Self-will」でひねり出したものじゃなかったでしょうか。そのルール、役に立ちましたっけ。
ですが、AAの中にもさまざまなルールがルールメイカーによって作られていたりします。
いい人にならなきゃ回復したことにはならない、回復者はイイ事言わなきゃいけない、回復者は人を裁いちゃイケナイ、感謝しなきゃ回復じゃない、承認欲求はテバナさなきゃイケナイ、自己憐憫はイケナイ、自他を受け入れなきゃイケナイ、許さなきゃイケナイ、人に嫌われちゃイケナイ、コントロールはヨクナイ、などなどなどなど………。
そんなルール守ろうとするより、12ステップしっかりやりゃいいんですよ、って感じです。また、ビッグブックの言う「本物のアルコホーリク」がそんなルールを真に受けたら、飲んで死にます。共同体の中には回復の役に立たない考え方もあるのです。
原理は学ぶのも、実行するのも、教えるのも手間なのです。ルールはお手軽ですよね、まるでアルコールみたいですね(言い過ぎ?
こまっちゃうのは、そういう人はえてしてそのルールを自他に押し付けることです。「スリップするのはミーティング歩きが足りないからだ」なんてね。まぁ、そりゃ僕も押し付けはやりますけれども、あまりにも、ねえ。ステップ1どこいっちゃったのよ。
どこへ行かれるのですか?
そして最もヤバイのは、ルールを守ることには「自分なりに理解した神との意識触れ合いを深め」る必要も、「神の意思を知ることと、それを実践する力を祈りと黙想によって求め」る必要もないからです。
自分の意思で決めたルールを、自分の力で一生懸命守ればいいんですから、ハイヤーパワーはいりません。ハイヤーパワーよりルールを求め、ルールを信頼すると言うのは、そういうことです。
ということは、もはや12ステップではない「なにか」をしてることになります。あの、ちょっと、どこへ行かれるのですか?ってかんじ。ステップ1(現在地)と2(目的地)は綺麗さっぱり吹き飛んで、迷っているわけです。
私たちが求めるのは「神の意思(God-will)」であって、「自分の意思(Self-will)」で作ったルールではないですよね。神が私たちになにを望んでいるのか、が重要なわけです。それがたとえ、自分にとって不都合で不愉快なものであっても。
霊的体験・霊的目覚めを得て、ハイヤーパワーを見つけ体験した結果として感謝の感情を持つことや、承認欲求が暴走しなくなることは当然あるでしょう。ですが、それは結果であって、手段でも目的でもないです。
まぁ、人が何してようと口出しするのも野暮な話なのですが、せっかく12ステップやってるのに逆走するというのはもったいない話だな、と思うのです。やればやるほど苦しくなりますしね。
AAメンバーが僕に教えてくれたこと
僕も、AAの中で「原理よりもルールを!」とルールを求めていたことがありました。そんな時は人に「こうやればうまくいく」という「ルール」を教えて欲しくなるものです。「あの人が上手くやっているのは、いいルールを知っているからだ!」ってな感じ。はじかちー。
なので、いろんな人に「あなたのルールを教えて欲しい」ってな感じで聞いてまわっていたことがあります。ルール=うまくいくやり方という、謎の方程式です。これは虚偽です。
すごく苦しかったですし、あのまま突き進んだらボトルに頭を突っ込んでいたでしょう。ルールと経験は違いますしね。
そんなときに、あるAAの仲間は、そんな僕のルールを求める質問に「AAに来たばかりの人は、人になんでも相談しなさいって提案されますけど、ステップやっていつまでもそれじゃダメですよね。失敗してもいいから、自分がやらないと、経験にはならないんじゃないでしょうか」と優しく(しかし、さすがAAメンバーらしくド直球で)諭してくれました。
「あなた、なんでそれをまず、祈りと黙想の中で神の意思と力を求めないの?あなたのステップどこいっちゃってるの?」と言われたようで僕はがっくり「その通りです」とうなだれたのでした。側から見りゃ、そんな動機は丸見えってことです、とほほ。
彼には「原理よりもルールを」とする僕の姿が見えていたのでしょう。彼が言ってくれた一言は、脱線して迷っていた僕を原理に叩き戻してくれました。本当に、ありがとう。
というわけで
というわけで、今回は、私たちが分かち合うのは「経験と力と希望」であって、人間が作ったルールじゃあねぇよなぁ、って話でした。強調しますが、ルールと経験は違います。
あ、「なんでそんなよくわからん本読んでんの? 後編」は途中で止まってます。台風ですし、おすし。